カテゴリ:小説の周辺( 8 )

江戸の通貨

小説に出てくる一両は、現代の価値に比較すると何円ぐらいに相当するのであろうか。
これが意外と曖昧模糊としているのである。
あなたはどのように換算されるのが正しいと思いますか。

①米の値段から
②通貨素材の価値から
③給金(俸給)の額から
④その他物価から
⑤それ以外
答えられないので⑤が近い答えです。
一口に1文が何円、1両が何円とは答えられません。 それには次のような理由があります。
  (1)江戸時代は、金貨、銀貨、銭貨の3種類の貨幣が共存していて、それらが別々の相場でした。
     まるで一つの国の中に、三つの通貨があるようなものだったのです。
  (2)江戸時代は300年近くあります。貨幣の品質が260年間でだんだん低下していきました。
     品質が下がると、当然物価は上昇します。
  (3)現在より、保存と輸送に費用がかかる時代でした。飢饉になれば物価は高騰します。場所や季節によ     る価格差も今以上に顕著でした。
  (4)現在と、物価やサービスの価値感、ものさしがが大きく異なります。一般に食べ物は今より高く、賃金      や土地は今より安かったようです。


江戸時代の通貨は、金、銀、銭の三種類(三貨)。

金一両の幕府が定めた公定相場 (元禄十三年;1700)
金 一 両 = 銀 60 匁(もんめ) = 銭 4千文:四貫文
 ※その時々で相場は変動した。
(参考)
重量単位(尺貫法)
一貫:3.75kg
一匁:3.75g
一貫=千匁 =千文



通貨一覧

金   貨 大判金(おおばんきん)≫
山吹色:大判・小判の別称
金一切=一分金

一両小判
二分金 (2分の一両)
一分金 (4分の一両)
二朱金(8分の一両) (2分の一分)
一朱金 (16分の一両) (4分の一分)

銀   貨
丁銀        丁銀・豆板銀のみ秤量貨幣(重さで通用、丁銀は42匁前後、調整は豆板銀で行う。
豆板銀
五匁銀 (12枚で1両 )
一分銀 (4枚で1両)天保一分銀(額銀:形が額面に似ているところから天保一分銀の俗称。

二朱銀 (8枚で一両)南鐐 (なんりょう)南陵:明和九年(1772)
一朱銀 (16枚で1両 )

銭   貨
一文銭(寛永通宝 )
四文銭(文久永宝)(寛永通宝(裏に波型のあるもの) )
十文銭(宝永通宝)
百文銭 (天保通宝(天保銭) )


鳥目(ちょうもく):中に穴があって鳥の目に似ていることから銭の異称。

一疋(匹)(いっぴき)=十文
一貫文=千文
四貫文=一両

天保銭:裏面には「当百」の文字を記す。実際には80文で通用。

寛永通宝の四文銭は通称「波銭」
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by binjichan | 2009-10-08 20:27 | 小説の周辺

昔の単位

当然のことながら、時代歴史小説には、昔の単位が使用される。
ところが、その単位では、即座に実感できないものが多い。そこで、日本の単位を羅列しておく。

日本の単位

長さ
毛(もう) 1毛=0.0303mm 日本の尺貫法は1958年になくなりましたが、現在でも木工・建築のなかで使われています。
特に伝統産業といわれるものはメートル法を使わず尺貫法を使います、例えば、鏡餅を乗せる三宝の大きさですが、店頭では○号と明記しているものが多いのですが号を寸に直すとそのサイズが解ります、5号なら5寸で約15cmになります。
建築でもメートルは使わず寸や間を使います、日本建築の家では柱2本分の間隔の長さが約1間ですので柱の数を数える家の大きさが分かります。

厘(りん) 1里=0.303mm
分(ぶ) 1分=3.03mm
寸(すん) 1寸=3.03cm
尺(しゃく) 1尺=10寸=30.3cm
丈(じょう) 1丈=10尺=3.03m
間(けん) 1間=6尺=1.818m
町(ちょう) 1町=60間=109.09m
里(り) 1里=36町=3927m
 
容積
弗(ふつ) 10弗=1才 容積はお米などでよく使うのでなじみがありますね、でも一般的には升ぐらいですが、小説では石もよく出てきます。

才(さい) 10才=1勺
勺(しゃく) 10勺=1合
合(ごう) 10合=1升
升(しょう) 1升=1.080391リットル
斗(と) 10升=1斗
石(こく) 10斗=1石
 
面積
歩(ぶ) 1歩=3.3058㎡=1坪 面積はたんぼの大きさを表すのによく使われまが、正式な文章にはha(ヘクタール)を使います
1haは約1町と憶えておけばだいたいの大きさが分かりますね、

畝(せ) 36歩=1畝
反(たん) 10畝=1反
町(ちょう) 10反=1町

時刻・時間
江戸時代の時間の単位は『刻』です。

『子の刻』とか、『九つ時』と呼びます。

『刻』は、不定時法と呼ばれる時刻で、
日の出(正確に言うと、日の出前の薄明かりの始まった時)から、
日没(薄明かりの終わった時)を「昼」、
日没から日の出までを「夜」として、
それぞれを6等分しそれを「1刻」と呼びます。

季節によって、(厳密に言うと日によって)一刻の長さが変わります。
ですので「不定時法」と呼びます。
日没が「酉の刻(暮れ六つ)」で、
日の出が「卯の刻(明け六つ)」です。
1刻は約1.5~2.5時間になります。

午前0時は、不定時法では季節に関係なく「子の刻」です。
子の刻の前の時刻に当たる「亥の刻」は、
午後9時30分~午後10時30分くらいから始まります。
(日没から子の刻までを3等分、
子の刻から日の出まで3等分しして、夜を6等分します。)

同じように「九つ時」は季節に関係なく、午前0時を指します。
「九つ時」以前は、亥の刻「四つ時」、戌の刻「三つ時」、酉の刻「二つ時」
九つ時を過ぎると、丑の刻「八つ時」、寅の刻「七つ時」、卯の時「六つ時」
です。

(※分かりにくいですね。上記でいう午前0時は、
夜と呼ばれる時間の真ん中という意味です。
今の時間に直したほうが分かりやすいかなと思いましたが
逆に難しくしたかもしれません。
要するに1刻は不定ですと言いたかったんですが・・。)

ちなみに、九つの後、時間と共に八つ、七つと減るのは、
九が易の陽数で、その後、九の倍数(18.27.36.45.54)
の十の位を省略して太鼓を打ったことによります。


〇飛鳥時代の時刻は、
日本書紀によると、斉明天皇6年(660)に天智天皇が皇太子の時に
初めて漏刻を作り、時をしらしめたとあります。
これが、日本の最初の時刻制度であると思われます。
また、天智天皇10年(671)には漏刻(水時計)を置き、
これにあわせて鐘や太鼓を鳴らしたと伝えられます。
これが、現在の時の記念日(6月10日)の由来です。
この当時の時刻制度は1日を12分割し、十二支で表していたようです。

〇奈良時代の時刻は、
718年の大宝令によると奈良時代には漏刻を管理し、
時に応じて鐘や太鼓を打った漏刻博士がおり、
制度的には整っていたようです。
しかし、漏刻は太宰府にありましたが、数は多くないと思われます。
この当時も1日を12分割し、十二支で表していたようです。

〇平安時代の時刻は、
平安時代中期、927年に制定された「延喜式」によると、
暦や占い・時刻を司どる役所として陰陽寮を規定していました。
それによると、宮城の門は朝開き、夜閉じていましたが、
その時刻に太鼓を打つのが陰陽寮の役目でした。
その規定では、時刻制度は定時法だtっといわれます。
また、日の入り,日の出の時刻も同時に掲載されていますが、
当時は太陰太陽暦を採用しているために、月日で表すことができず、
二十四節気で表しています。
時刻は1日を12分割し、十二支をあて、それを4分割したものが刻。
刻を10分割したものが分でした。
そして、基準値としては太陽の南中時刻を午の3刻としていたようです。

当時は十二支の時刻を太鼓で、その下の配分である刻を鐘で知らせていました。
子と午の時刻は太鼓を9つ、丑と未は8つ、寅と申は7つ、
卯と酉は6つ、辰と戌は5つ、巳と亥は4つ太鼓を打ち、
その下の刻を鐘でうったとされます。
この時刻の太鼓の数が江戸時代の時刻の呼び名の基となったとされます。

〇室町時代の時刻は、
恐らく宮中においては、延喜式に従ったものであると思われています。
一方、寺院では不定時法で時の鐘をうっていたと思われます。
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by binjichan | 2009-10-08 10:00 | 小説の周辺

徳川400年の内緒話  徳川宗英   文春文庫

田安徳川家第十一代当主が徳川家に伝わる内緒話をつづったエッセイ集である。歴代将軍にまつわる部分では、今まで小説では、お目にかかれなかった逸話もいくつか語られている。
公になっていなかった部分について興味をそそられ多面もあるが、それは、前半だけ。読み続けるにつれ、退屈しはじめた。江戸時代の歴史小説を読むための、内面から見た将軍像に新たなイメージをもって参考になるといった類のものとは、切り離して読まざるを得ないものであった。
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by binjichan | 2008-06-20 21:12 | 小説の周辺

歴代直木賞受賞作家と歴史時代小説

芥川賞と直木賞は作家にとっては、世に認められる偉大な登竜門である。
歴史時代小説においても、この登竜門を越えた作家が、素晴らしい感動的な小説を多く世に問うている。
そこで、歴代直木賞作家と作品をみて、歴史時代小説を探してみるのも一考かと思う。


歴代直木賞受賞作家と作品へリンク
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by binjichan | 2008-02-04 10:28 | 小説の周辺

時代小説うまいもの歳時記 蕎麦「二八論議」

蕎麦
蕎麦を食べる習慣は古代時代からの伝統をもつが、江戸時代以前は、そば粉に水を加えて団子状にした蕎麦がきに汁をつけて食べるのが主流であった。江戸幕府が成立してまもない17世紀中ごろ、繋ぎに小麦粉を使う製法が伝来し、細く切った麺をつゆに浸して食べるそば切り、現在のざる蕎麦が生まれた。18世紀の中ごろには、蕎麦を入れた丼につゆをかけるぶっかけ蕎麦が手軽さもあって人気を博し、寛政年間には、掛け蕎麦の名称が定着していた。蕎麦の値段といえば、1664年以来、「二八」の語原とも言われる16文が相場。幕末の物価高騰により24文になる。それでも「三八そば」の呼称は現れていない。(朝日新聞解説文 市川寛明より)
「まったく、みんなして同じことを抜しァがる。いいかえ彦さん、二八蕎麦てえのは二八が16じゃあねんだ。蕎麦が八分にうどん粉が二分、うめいころあいの二八蕎麦てぇことだ。値上げはしかたあるめぇ、文句なら公方様に言ってくんな」浅田次郎「憑神」より
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by binjichan | 2007-12-03 12:10 | 小説の周辺

すし 鮨 寿司


今や日本を代表する世界的な料理になった握り鮨。一応、鮨の字を用いたがどれを使ってもよいらしい。酢飯から発生して「め」が取れて「すし」となったのが本来の言葉であり、漢字は当て字ということになる。魚が旨いと書いて鮨、めでたい寿を使って寿司。すし屋が屋号をつけるとき、好き好きに雰囲気で使い分けているにすぎないと思えばよい。
鮨が今のようになったのは、19世紀の前半の江戸時代だそうだが、時代小説の世界ですし屋で食べる情景を描いたのは、意外と少ない。私もすし屋にまつわる情景を描いた作品を読んだ記憶はない。それまでは自然発酵による馴れずしが主流であつたのが、酢の発明により酢飯にネタをのせて握るようになったようである。すぐできるすしなので、早ずしの異名もある。当時有名だったのは、深川の「松のすし」と両国の「与兵衛ずし」で、その後爆発的に広がり、町ごとにⅠ・2軒のすし屋があったようである。

こんな作品もあるようだ。
晩飯前で英助の健康な胃袋は好物をまえにしては歯止めがきかなかった。英助は遠慮もなく手を伸ばした。こはだは銀色に光り輝いていた。鮪のかッとした赤さ、穴子、卵焼きの厚さに感動した。(宇江佐真理「桜花を見た」
文春文庫)

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by binjichan | 2007-11-30 21:44 | 小説の周辺

江戸庶民の食事

時代小説でうまいもの描写がさかんに登場するのは、池上正太郎の小説が知られている。朝日新聞の広告特集(07・6・27)に新しい時代小説のうまいもの描写が載っていた。残念ながらどの小説もまだ読んでいない。

庶民の食事
江戸庶民の日常の食事は、現代から見るとかなり質素。幕末ころの記録によると、先ず朝ごはんを炊き、炊き立てのご飯に味噌汁だけ。昼は、冷や飯に魚か野菜を添える程度で、夕食は茶づけに漬物。昼が一汁一菜と最も豪華?な食事であった。
それでも江戸では庶民でも毎日尾ように白米が食べられたことが知られ、同時代の農村部から見ればまさに贅沢だったといえる。同時代髪型では昼にご飯を炊くのが一般的で、おかずの数も江戸より多かったとある。

箱膳には鯵の干物と分葱を散らした味噌汁、それに浅蜊の佃煮、焼き海苔が載っている。朝から豪勢な膳だが、食が太くて早飯食いの連中は、いくらも刻をかけずに平らげた。(山本一力「損料屋喜八郎始末控え」文春文庫)
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by binjichan | 2007-11-24 22:26 | 小説の周辺

江戸小説を描く平成の絵師 蓬田やすひろ

時代小説の挿絵 やブックカバーのイラストを描いて25年になるという。
この人の作品は、多くの人気シリーズの表紙を飾る。最初の作品は、藤原周平さんの「橋ものがたり」。
小説の世界観を大切にし、空気感を感じさせる構図、落ち着いた深みのある色調で仕上げたことが、この人の装丁画の原点になっている。
小説をじっくりと読んでイメージを膨らませ、更に練っていくというのであるから、かなりの冊数の時代小説を読まれていることになる。
小説家が作り上げた主人公のイメージを絵が踏みにじってはならないうえに、絵として作者のイメージを維持しなければならないこともあってか、絵の技にも工夫されている。
色は日本画の画材を幾つも混ぜて透明感のある癒されるような中間色を主体とし、癒される色になっている。また習字のように絵の中に「間」を設け空気感を表現し、美しく品位がありしゃれている。
物がない時代のシンプルさと人情味を、これからも描き続けて欲しいものだ。
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by binjichan | 2007-11-18 16:47 | 小説の周辺